京飴綾小路
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飴のお話
「飴」となんでしょう?
一言で言えば、「砂糖と水飴を煮詰めて出来た、甘い菓子」ということができるでしょう。

「うまい」という言葉は「あまい」と言う言葉と同源といわれ、古来人は甘いと言われた物を上手いと感じきました。今でも子供がぐずると甘い物を与えると、機嫌が直りますね。また、「あめとむち」ということわざや、幽霊飴などの昔話では母乳の代わりに飴を与えたとの伝承もあります。「飴」という漢字は「食」「台」からなり、食べて台(喜ぶ)という意味から来ています。

さて、文献上で、飴と思われる記述が見られるのは、「日本書紀」に神武天皇が大和の国を平定したときに、「水無しに飴(たがね)を造らむ」と祈った記事があります。奈良時代、飴は糖や阿米とも書かれています。「神武天皇」の時代に既に飴があったかというのはわかりませんが、「日本書紀」の編纂された8世紀前半(720)にはすでに飴が存在していたと言うことが考えられます。

また、天平10年(738)の正倉院文書「駿河国正税帳」には甘葛を税として納めていたという記事があります。このころは甘葛煎というツタ草を煮詰めて造るシロップのようなもので、ちょうど現代のメープルシロップのようなものだったようです。

平安時代の「和名類聚抄」に飴は「麦もやしからつくる」と言う記事やおこしは「炒った米を蜜(水飴)とまぜてつくる」と言うことも載っており、すでに水飴を使用したお菓子があったようです。平安時代には、貴族の生薬として地黄煎を服用した。これは、漢方の地黄と水飴をまぜて練って服用した物で、後の時代には、地黄を入れていない水飴もこのように呼んだようです。このころは、水飴のような飴でお供えや租税として、また生薬としての用途がほとんどだったようです。

元和元年(1615)に豊臣氏が滅びたあと、陣九郎重政と言う人が、大阪の平野のあたりで飴を作っていた言う記述や、その後宝暦四年(1754)刊行の「日本山川名物図絵」には摂津名物平野飴の記事と図があります。これには、上半身裸の男が、二人で向かい合って飴を引き店頭にはねじった飴が並び、その横には木槌の大きいような物が置かれている絵が書かれています。元禄・宝永のころ(1688〜1710)には浅草で、七兵衛という飴売りが千歳飴(寿命飴)を売り出し名を知られたとの記録があります。

今まで述べてきた飴は、米や麦などを原料として水飴のような物をそのままに、または煮詰めた物を引いたり、桶に入れ固まらせそれをノミで割るなどをしたもので、現在の飴やキャンディーとは、少し違う物です。江戸時代個人の飴売りもいましたが、当時は、大道芸を見せたり、チャルメラのような物を吹きながら、やってきて飴を棒に巻き付けたりして販売していたようです。現在でもこのような「飴」は僅かながらですが、東北地方や北陸地方、四国地方など、ここ京都でも生産されています。

少し話はさかのぼりますが、室町時代、南蛮文化が日本に入ってきました。鉄砲伝来と同じ頃です。このときカステラ、金平糖等と共にアルフェロアという呼ばれる物がはいってきました。砂糖に少量の水飴を加え煮詰め、火から下ろした後に着色や成形を行うものです。これが今のみなさんにおなじみのいわゆる「飴・キャンディー」と同じ製法で、有平糖と呼ばれる物です。当初は、クルミのように筋が付けられ丸い形をしていたようです。

現在、有平糖は、茶道のお茶菓子として出される物で、季節の植物や、風物の形に作られている有平細工はよくご存じかと思います。このような、有平細工は、江戸時代文化・文政のころに最盛期を迎え、棒状や板状に延ばしたり、空気を入れてふくらませたり、形に流し込んだりという技法も既に用いられていたようです。当時上野にあった菓商・金沢丹後の店の有平細工は、花や蝶が本物と間違えられるほどとの記述があります。しかしながらこれらの有平糖は、宮中や将軍家内で僅かに食されていたに過ぎません。

これには原材料の砂糖の生産との関わりがあります。少し話がずれますが砂糖の話も簡単にしておきます。砂糖は日本へは奈良時代に鑑真によって伝えられたと言われています。また中国には、西方のインドから入ってきたのではないかと言われています。日本で本格的に砂糖とつきあいだしたのは先に述べたポルトガル人たちが持ち込んだお菓子からでした。琉球王国では1623年頃に砂糖の生産を始めたと言う記述があります。このころの砂糖は薬品とみなされるくらい、夢のような食べ物でした。18世紀後半から一九世紀初頭までに長崎の出島を窓口に砂糖の輸入が行われていました。江戸時代徳川吉宗が、琉球からサトウキビを取り寄せ、江戸城内で栽培させ、各藩にサトウキビの苗を渡し栽培実験をさせました。この結果房総、上総から筑前・筑後まで国内31ケ所で生産されていました。特に中国・四国地方では現在でも、「和白糖」とよばれる国産の精白糖なかでも高級品の和三盆は現在でも有名です。しかしながら実際に流通していたのは、江戸、大阪など当時の大都市周辺の限られた階層のみだったようです。

国内での生産や海外でも大量生産ができ、ようやく江戸時代末期に砂糖が入手しやすい環境になり、現在の「飴」のような有平糖が庶民の手元に届くようになりました。今ではどちらかというと嫌われている砂糖ですが、当時はこのように高価で庶民の口にはほとんど入らなかった物でした。もっとも、明治になってからでもすぐの頃は、地方の山奥の地域などでは、まだ砂糖を見たことがない、使用したことが無いという人々もおられたようです。国内のすみずみまで砂糖が普及するのは、日清戦争後の事です。

明治時代に入って海外との交流が盛んになると、ドロップ(飴)の技術が入り、香料や酸味料を使用して、フルーツなどの色々な味や香りをより本物に近い物に仕上げる技術が進んできます。また、原材料の水飴が、より透明に出来ないか(それまでは若干色の付いた物)という研究もされてきます。さらに時代が進むにつれ、もっと大量に、より早く、より楽に出来ないかという製造機械の研究開発もなされてきます。これが現在の大手の飴メーカーに繋がってきます。

昨今では、さらに味だけでなく機能性を持った飴が、例えばのどあめや熱中症によいとか、ビタミンや、コラーゲンが入っているetc〜等の飴が、また本来の「飴」の意味からは少し違うかもしれませんが、ノンシュガー(砂糖不使用)等、新しい原料・素材を使用した商品が数多くスーパーやコンビニに陳列されています。

他方、金太郎飴、手まり飴などの細工飴、有平糖、京飴などのように従来からの製法・技術を脈々と継承し現在まで続いている飴もあるのです。これからもこの伝統の製法・技術をさらに次の世代へ継承して行かねばなりません。


参考文献
・京都飴菓子工業協会 1976 飴泉記
・川北 稔 1996 砂糖の世界史 岩波ジュニア新書
・牛嶋 克俊 2009 飴と飴売りの文化史 弦書房
・明治製菓(株) 1977 お菓子読本

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